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行者のはからひにあらず [『末燈鈔』を読む(その54)]

(3)行者のはからひにあらず

 自然も法爾も「行者のはからひのなき」ことを言うと繰り返し述べられています。繰り返しが多いのも、これが親鸞の語りを聞き書きしたものであることを示しているでしょう。親鸞は顕智たちに、この他力の真髄を「くどくどと」と言いたくなるくらい何度も語り聞かせたに違いありません。
 どうしてこうもしつこくなるかといいますと、「はからわない」ということが普通の感覚に馴染みにくいからです。生きることは一から十まで「はからい」で埋め尽くされていますから、「はからわない」などと言われると戸惑ってしまうのです。眠っているときだって、無意識のうちに、抜かりなく「はからっている」のですから。
 少し前に読んだ本(『炭水化物が人類を滅ぼす』)によりますと、ぼくらの身体が日々消費している全エネルギーの何と20パーセントもが脳によるものだそうです。脳は四六時中(寝ているときも)、いま自分がどのような状況におかれているかを誤りなく判断し、それに応じてどのような行動をとるべきかを時を移さず、しかも的確に身体各部に指示しなければならないのですから、その消費エネルギーが多いのも道理というものです。
 これが「はからう」ということですから、それをしないということは、もう生きる努力を放棄するにひとしいと言わなければなりません。こんなふうに生きることは隅から隅まで「はからう」ことで満たされているのですが、ここで考えなければならないのは、「はからおう」にも「はからえない」ことがあるということです。
 それは「いまここにいる」ことです。
 ぼくはいま自分の部屋でパソコンに向かっていますが、それがいやなら、居間に下りていくこともできます。その意味では「いまここにいよう」と「はからって」いるのですが、問題にしているのは、いまここに「存在している」ことそのものです。これはどう「はからおう」にも「はからえない」。


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