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かたちもなくまします [『末燈鈔』を読む(その60)]

(9)かたちもなくまします

 そもそも「救われる」とはどういうことかは、「救われていない」という思いを分析することで明らかになります。それは、これまで繰り返し述べてきましたように、「いまここにいる」ことに居心地の悪さを覚えるということです。したがって「救われる」とは、この居心地の悪さが解消すること、「いまここにいる」ことに安心できるということです。
 それはしかし自分でそうしようとしてできることではない、これが自然法爾の意味でした。それは弥陀が「はからはせたまふ」のであるということ、これを親鸞は第1段でくどいほど説いてきたのです。ではどのように「はからはせたまふ」のかと言いますと、いのち終わったあとかならず仏になれると約束していただけるということです。そうして、もうすでに仏とひとしいことに気づかせてもらえるということです。
 さてしかし、仏になるとはどういうことか。仏とは何か。
 ぼくらは仏と聞きますと、すぐさまその姿かたちを思いうかべます。仏像です。仏像とはもともと涅槃に入った釈迦の像でした。それも初期の仏教徒たちは法輪や仏足石で釈迦仏を象徴していたにすぎず、インドへやってきたギリシャ人たちの影響を受け、ガンダーラやマトゥラーで仏像が造られるようになったのは釈迦が亡くなって数百年も後のことです。そして大乗仏教の発展とともに、釈迦仏だけでなく阿弥陀仏や薬師仏など多くの仏像が造られるようになります。
 こうして仏と言えば、もうその姿かたちから離れては考えられなくなっていくのですが、仏の元来の意味は「悟りをひらいた人」であり、「涅槃の境地にいる人」ですから、親鸞の言うように「無上仏とまふすは、かたちもなくまします」はずです。「かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず」であり、仏像はあくまで方便にすぎないと言わなければなりません。


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