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正嘉の飢饉 [『末燈鈔』を読む(その65)]

(2)正嘉の飢饉

 「なによりも、こぞ・ことし」と、はじめて手紙文らしい書き出しですが、そのあとに書かれているのは尋常ならざる事態です。「老少男女おほくのひとびとのしにあひて候らん」と言いますのは、もちろん飢饉のことです。この手紙が書かれた前の年に正嘉の大飢饉が起こっています。日蓮は『立正安国論』の冒頭でこの飢饉のことを語っていますが、それによりますとかなりの惨状が各地に見られました。
 「旅客来りて、嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)、飢饉疫癘(ききんえきれい)、遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩(ともがら)、既に大半に超え、悲まざるの族(やから)、敢て一人も無し」とありますように、大地震や異常気象により大飢饉が起こり疫病もはびこったようです。
 大地震といえば2011年3月11日を思い出さざるをえないのですが、あのとき有名な宗教学者が新聞に寄稿した文章はぼくを深く落胆させました。あの地震・津波そして原発事故について宗教は何を言うのだろうと固唾を呑んで見守る中で、真っ先に発言したのがこの宗教学者だったのですが、彼は「世の無常を感じざるをえない」と言ったのです。ぼくは「えっ、それはないだろう」と怒りすら感じました。
 この落胆は何かと言いますと、みんなが深い悲しみの底にあるときに、ひとり収まっているといいますか、悟り澄ましているといえばいいでしょうか、「世の中、そんなものです」という言い方がひどく冷たく感じられたのです(ある政治家の「あれは欲望のとりこになっている日本人への天罰だ」よりはましですが)。宗教はそんなことしか言えないのか、そんなことなら言わない方がいい、と思えたのです。


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