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愚者になりて往生す [『末燈鈔』を読む(その69)]

(6)愚者になりて往生す

 文中の「ひとびとにすかされさせたまはで」という言い回しから推しはかってみますに、当時、ただほれぼれと念仏しているだけの人に、経も読まず、論釈など何も知らない「愚痴無知のひと」では往生できないぞと脅すやからがいたのでしょう。乗信坊としては人々に「如来の御はからひにて往生するよし」を話し、あえて学問をする必要などありませんと説いていたのでしょうが、それでいいのでしょうかと親鸞に確認してきたのだと思われます。
 親鸞はそれに対して、法然聖人のことば「浄土宗の人は愚者になりて往生す」を上げるだけでなく、「ものもおぼえぬあさましき人々」と「ふみさたして、さかさかしきひと」のそれぞれがやってきたときの法然聖人の様子を、傍にいた人でなければ分からない細部にわたって紹介して、あなたが日頃お話されている通りで、学生沙汰をするものではありませんと答えているのです。
 思い起こされるのが『歎異抄』第12章です。唯円はそこで「たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり」と厳しくたしなめています。とかくぼくらは手柄を立てたいと思うものです。どうだ、こんなによく知っているのだと誇りたい。それが本願念仏の世界にまで忍び込むのですから厄介です。
 他人事ではありません、ぼく自身はどうか。ぼくはいま中日文化センターで「はじめての『唯信鈔文意』」というタイトルで親鸞の他力思想について語り、また「『末燈鈔』を読む」というブログを日々書き連ねているのですが、これは「学生沙汰」ではないのでしょうか。親鸞についてこんなによく知っているのだと「どや顔」をしているのではないでしょうか。


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