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学生沙汰とは [『末燈鈔』を読む(その71)]

(8)学生沙汰とは

 ぼくはいま学問と宗教の関係をいろいろと思い巡らしているのですが、これはどう考えても「知る」営みでしょう。ということは、これは「気づく」を本領とする宗教にとって何の意味もないことなのでしょうか。そうだとも言えるし、そうではないとも言えます。どういうことか。
 確かに宗教は「気づく」ことです。これは動きません。まず「わたし」がいて、しかる後に気づきがあるのではなく、まず気づきがあり、しかる後に「わたし」が出てくるのです。そして、気づきがあることに宗教は尽きると言っていいのですが、しかし気づきに遅れて登場してくる「わたし」が、その気づきについていろいろ思い巡らすことはあってもいい。そうするのがむしろ自然でしょう。
 もちろん、そうしなければならないわけではありません。宗教としては気づきさえあれば、それでもう十分なのですから。ところが人間というものはとかくいろいろ知りたがる。気づきを仏智不思議とうけとるだけでいいのに、これはいったい何だろう、などと詮索しはじめるのです。
 それは人間の性であり、またそのことにより曖昧なままであったことがすっきりと解明されることもありますから、それとして大事な営みであると言わなければなりませんが、ただ一番の問題は、この知の営みがいつしか増長して、肝心の気づきがどこかへ追いやられてしまうことです。そうなっては元も子もありません。
 親鸞がこの手紙で「かまへて学生沙汰せさせたまひ候はで」と言っているのは、そのことに違いありません。本願とは本願の気づきに他ならないのに、その気づきがないままに、本願について経にはこう書いてある、論釈にはこうあるとわが知識を誇り、そんなことを知らないのかと他を責めるのを学生沙汰と言っているのです。


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