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浄信房からの手紙 [『末燈鈔』を読む(その72)]

(9)浄信房からの手紙

 続いて第7通に進みます。これまでの手紙も(第5通を除いて)親鸞宛ての手紙に対する返信であることが文面から伺えますが、この第7通には、もとの親鸞宛ての手紙が残っていまして、往復のやり取りを読むことができます。その意味で非常に興味深い。手紙を送ってきたのは浄信房という人です。

 無碍光如来の慈悲光明に摂取せられまいらせ候ゆへ、名号をとなへつゝ不退のくらゐにいりさだまり候なむには、このみのために摂取不捨をはじめてたづぬべきにはあらずとおぼへられて候。そのうへ、『華厳経』に「聞此法歓喜信心無疑者、速成無上道与諸如来等」とおほせられて候。また第十七の願に、十方無量の諸仏にほめとなへられむとおほせられて候。また願成就の文に十方恒沙の諸仏とおほせられて候は、信心の人とこゝろえて候。この人はすなわちこのよより如来とひとしとおぼえられ候。このほかは凡夫のはからひおばもちゐず候なり。このやうをこまかにおほせかふり給べく候。恐々謹言。
 二月十二日                                浄信

 (現代語訳)無碍光如来の慈悲光明に摂取していただくことができ、名号を称えながら不退の位に定まったのですから、摂取不捨についてことあたらしくお尋ねすることはないのかもしれません。その上、『華厳経』には「この法を聞いて信心を喜び疑いのない者は、速やかにこの上ない悟りを成就して諸々の如来とひとしい」とあり。また第十七願には「十方世界の無量の諸仏にほめ称えられる」と言われています。またその成就文に「十方世界の無数の諸仏が云々」と言われているのは、信心の人のことだと心得ております。これらは信心の人はこの世においてすでに如来と等しいということだと了解しています。ですからもう凡夫の浅はかなはからいなどいらないと。こんな理解でよろしいでしょうか、細かにお教えをいただきたく存じます。謹んで申し上げます。


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