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親鸞の返信(第7通) [『末燈鈔』を読む(その74)]

(11)親鸞の返信(第7通)

 さて、親鸞の浄信房への返信です。2段に分け、まず第1段。

 往生はなにごともなにごとも凡夫のはからひならず、如来の御ちかひにまかせまいらせたればこそ、他力にては候へ。やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候。
 如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申は、摂取不捨の利益にあづかるゆへに、不退の位にさだまると御こゝろえ候べし。真実信心さだまると申も、金剛信心のさだまると申も、摂取不捨のゆへに申なり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申なり。これを不退のくらゐとも、正定聚のくらゐにいるとも申、等正覚にいたるとも申也。このこゝろのさだまるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こゝろにひとしとほめたまふなり。このゆへに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申なり。又補処の弥勒とおなじとも申也。

 (現代語訳)往生は何から何まで凡夫のはからいでするものでは決してありません、如来の御誓いにお任せしてできることですから、他力と言うのです。それをさまざまにはからいあっておられるようで、おかしく思います。
 如来の本願を信じる心の定まる時と言いますのは、その時直ちに如来に摂取され、もはや捨てられないという利益に与るゆえに、必ず悟りに至る不退の位に定まるのだと理解すべきです。真実の信心が定まると言いますのも、金剛のように堅い信心が定まると言いますのも、その時直ちに如来に摂取されもはや捨てられないという利益に与るからのことです。だからこそ、この上ない悟りに至るに違いないと思う心が起こると言うのです。この状態を不退の位とも、正定聚の位に至るとも、等正覚に至るとも言うのです。このように信じる心の定まることを、十方世界の諸仏が喜ばれて、諸仏の心と等しいと褒められるのです。こんな訳で、真実の信心の人を諸仏に等しいと言うのです。また補処の弥勒と同じとも言うのです。


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