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やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候 [『末燈鈔』を読む(その75)]

(12)やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候

 冒頭に手厳しいことばがきます、「やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候」と。見たところ、浄真房の言っていることと親鸞の言っていることにさほど違いがあるようには思えません。少なくとも浄信房は親鸞浄土教に背反することは言っていません。にもかかわらず、親鸞は「おかしい」と言う、「はからっている」と言う。どこがどのように「おかしい」のでしょう。
 「おどおど」しているという印象を受けると言いました、「恐る恐る」述べているようだと。そのことに関係するに違いありません。
 前に「学生沙汰」について考えました(8)。それは、本願の「気づき」がないまま、信心や念仏について、経典や論釈の「知識」を振り回すことでした。親鸞は浄信房にそれを感じたのではないでしょうか。彼が「おどおど」しているのは、本願の信が、つまりは本願の「気づき」がないからに相違ないと。
 「気づき」には疑いの入る余地がないことを確認しておきましょう。
 「気づき」は事後的であることを思い起こしたいと思います。「気づき」は「もうすでに」起こってしまっているのです。「覆水盆に返らず」で、すでに起こってしまった「気づき」はもう何ともなりません。「ああ、あなたでしたか」と気づくとき、そこにあなたがいることはもう疑いようがありません。
 ぼくらが何かを疑うのは、それが何であるかを「知っている」と思っていたが、実はそうではないと思うときです。そんなとき、ぼくらはその何かを前にして、これは何であるかをあらためて「知ろう」とします。疑うことは「知る」領域にあるということがお分かりいただけると思います。しかし、何かに「気づいてしまった」ときは、そこに疑いは入り込めないのです。


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