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摂取不捨ということ [『末燈鈔』を読む(その76)]

(13)摂取不捨ということ

 浄信房が「おどおど」しているように感じられるのは、本願の信(気づき)がないからではないか。そこで親鸞は本願を信じるということについて語りだします、「如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申は」というように。気づきが起こる瞬間をさまざまなことばを繰り出して伝えようとしているのです。
 思い出されるのが「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」という一節です。『歎異抄』の冒頭におかれて印象的なのですが、親鸞浄土教にとってこの「信楽開発の時刻の極促(気づきの瞬間)」こそ、すべてのアルファでありオメガであると言わなければなりません。
 『歎異抄』では、このことはに続いて「すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」ときます。それは、この手紙で「如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申は、摂取不捨の利益にあづかるゆへに、不退の位にさだまると御こゝろえ候べし」とあるのとピッタリ重なります。
 摂取不捨というのは、包み込まれ、抱きしめられる、というイメージです。そのとき「ああ、救われた」という思いが湧き起こる。
 さて問題は信心と摂取不捨の関係です。普通は「信じれば救われる」と言われ、信心することにより、摂取不捨の利益が得られると理解されます。信心という原因に対して、摂取不捨という結果があるというこの見方は実に分かりやすい。しかし、その足元に落とし穴が待ち受けています。
 「信心が原因で、摂取不捨が結果」となりますと、すぐ「摂取不捨の利益を得るためには、信心が不可欠である」というように、「原因-結果」が「目的-手段」へと読みかえられます。かくして「手段としての信心」が登場することになるのです。


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