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まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申なり [『末燈鈔』を読む(その77)]

(14)まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申なり

 しかし信心は摂取不捨の原因でしょうか、その手段でしょうか。「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とはそういう意味でしょうか。「如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申は、摂取不捨の利益にあづかるゆへに」はそう読めるでしょうか。到底そうは読めません。
 ではどう読めるか。信心と摂取不捨は別ものではないと読めます。その二つを切り離してはいけないのです。
 原因と結果は別ものです。その二つははっきり切り離さなければなりません。目的と手段も別ものです。それがひとつであるということは目的でも手段でもないということです。しかし信心と摂取不捨はひとつです。本願を信じることが、そのまま本願に包み込まれ、抱きしめられるということです。
 本願を信じるということは、あるときふと本願に気づくことでしたが、それは取りも直さず、本願に包み込まれ、抱きしめられていることに気づくということです。「ああ、あなたでしたか、気づきませんでした」というとき、あなたに気づいているのですが、それはあなたの視線が自分を眼差していることに気づくということです。
 本願に気づくとは、本願力に気づくことに他なりません。
 親鸞は「このこゝろのさだまるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こゝろにひとしとほめたまふなり」と言います。「このこころ」は、信心、摂取不捨、不退のくらゐ、正定聚のくらゐ、等正覚などとさまざまに言い換えられますが、みなひとつで、そのこころは諸仏のこころにひとしいというのです。だからこそ「まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申なり」と。


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