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「いま、ここ」 [『末燈鈔』を読む(その79)]

(16)「いま、ここ」

 「諸仏とひとし」の論点が続きますが、親鸞はここで『阿弥陀経』を持ち出します。浄信房は『華厳経』の「もろもろの如来とひとし」の文と、『無量寿経』の第十七願およびその成就文を出して「信心の人は如来とひとしい」ことを裏づけようとしていました。それは真仏房宛て第4通で親鸞がしていることをなぞっているのですが、親鸞はさらにそれに加えて『阿弥陀経』の「諸仏護念」を出してくるのです。
 『阿弥陀経』は『小経』とよばれますように小さな経典ですが、その特徴は、一切諸仏が釈迦仏と心をひとつにして念仏往生を「証誠(しょうじょう、証明)」していること、そして念仏往生を信じる衆生を「護念」してくださることが説かれている点にあります。親鸞はこの「諸仏護念」を上げるのです、「信心のひとは如来とひとしい」ことを言うために。
 そのさい親鸞が強調するのが、「〈このよにて〉真実信心の人をまほらせ給」うこと、「安楽浄土へ往生してのちはまもりたまふと申ことにては候はず。〈娑婆世界にゐたるほど〉護念す」ということです。いのち終わったのちではなく、信心がさだまった「いま、ここ」で護ってくださるということ、現生正定聚であるがゆえの「現生護念」です。
 この「いま、ここ」が浄信房に感じられないということ。
 彼は「諸仏とひとしい」ことを経文から言おうとしているのですが、そこにこの「いま、ここ」がない。「諸仏とひとしい」ことを「いま、ここ」で感じているように思えないということです。何か数学の証明のように、経典のここにこう書いてあるから、「信心のひとは諸仏とひとしい」と言えるのだと述べるだけで、そこに浄信房そのひとがいるように思えないのです
 親鸞が、「諸仏が念仏のひとを護ってくださる」のは「いま、ここ」においてですと強調するのは、「いま、ここ」でそれをわが身に感じることこそ肝心なことだと言おうとしているに違いありません。


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