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「義なきを義とす」 [『末燈鈔』を読む(その80)]

(17)「義なきを義とす」

 最後に「義なきを義とす」という法然のことばで締めくくられます。「はからうな」ということです。冒頭に「やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候」と書いたのを受けて、もう一度「はからうなかれ」と釘を刺しているのです。「はからう」とは、本願の信(気づき)がないままに、信心とは何か、念仏とは何か、「諸仏とひとし」とは何かと、もってまわることです。
 浄信房の手紙の中に気になる一節がありました。「また願成就の文に十方恒沙の諸仏とおほせられて候は、信心の人とこゝろえて候」というくだりです。これは、そのままに受け取りますと、第十七願の成就文に「十方恒沙の諸仏」とあるのは、信心のひとのことを指していると読めます、つまり諸仏とはわれらだと。もしそうでしたら、親鸞ならずとも「やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候」と言わなければなりません。
 これでは「信心のひとは如来とおなじ」となってしまいます。
 お気づきだと思いますが、親鸞は「ひとし」と「おなじ」を厳格に使い分けています。「如来とひとし」と言い、「如来とおなじ」とは決して言いません。また「弥勒とおなじ」と言い、「弥勒とひとし」とは言いません。信心のひとは正定聚ですから「如来とひとし」とは言えても、「如来とおなじ」とは言えません。また弥勒は等正覚の位にありますから、われら正定聚とおなじです。
 さて、諸仏とわれらの関係について、前にこんなふうに言ったことがあります(3章-12)。親鸞の書くものを読んでいると、仏とわれらとの境界がぼやけてきて、めくるめくような不思議な感覚になってくると。浄信房もそうした感覚から「十方恒沙の諸仏とは、信心のひとのことだ」と言ったのでしょうか。


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