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誓願と名号 [『末燈鈔』を読む(その83)]

(2)誓願と名号

 この手紙は教名房に宛てられていますが、この名は門弟の名簿に見当たらず、別本に「けうやう」とあることから、教養房のことだと考えられます。教養房とは、常陸の国・稲田の領主、稲田九郎頼重のことで、親鸞はこの人の招きで稲田に草庵(いまの西念寺)を結んだと言われています。
 教養房の「御不審」とは何だったでしょう。親鸞の文面から推し測ってみますに、誓願と名号はどのような関係にあるのか、誓願が根なのか、それとも名号が本なのか、是非とも「ききわけ、しりわけ」たいということではなかったでしょうか。しかし、それに対する親鸞の答えはいともあっさりしたものでした、「誓願・名号とまふして、かはりたること候はず」と。「ききわけ、しりわくるなど、わづらは」しいではないかと。
 第7通の浄信房のときと同じように、教養房にも「やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候」と親鸞は言いたいのでしょう。
 思い出すのは『歎異抄』11章です。そこで唯円は、文字も知らない人が無心に念仏しているときに、「あなたは誓願を信じるか、名号を信じるか」などと問いただすことがいかに愚かしいかを説いています。誓願を信じるのも名号を信じるのも同じだと言っているのです。唯円がそれを書いているとき、「誓願をはなれたる名号も候はず。名号をはなれたる誓願も候はず」という親鸞のことばが思い浮かべられていたのではないでしょうか。
 誓願と名号といえば、親鸞は『教行信証』の教巻でこんなふうに述べています、「こゝをもて如来の本願をとくを経(『無量寿経』)の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」と。本願が「宗」で名号が「体」。もし教養房がここを読んでいたとしますと、この言い回しに引っかかったのではないでしょうか、これはどういうことだろうと。


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