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浄土の業因はわれらが用意しなければならないか? [『末燈鈔』を読む(その90)]

(9)浄土の業因はわれらが用意しなければならないか?

 浄土の業因ということばはもう一度でてきます。ある人が、どういう状況においてかは分かりませんが、浄信房に「出世のこゝろおほく浄土の業因すくなし」と言ったというのです。親鸞はそれに対して「こゝろえがたく候」と言います、「出世と候も、浄土の業因と候も、みなひとつにて候」と。どういうことでしょう。
 ここで「出世」というのは「出世間」のことで、「出世のこころ」とは、煩悩まみれのこの世間から出たいと願うことでしょう。「厭離穢土、欣求浄土」です。「出世のこゝろおほく浄土の業因すくなし」というのは、欣求浄土の思いは多くても浄土の業因が少なくてはいかがなものか、という趣旨で言われたものと思われます。
 親鸞はこのことばに「すべてこれなまじゐなる御はからひと存じ候」と一喝します。「なまじゐ」といいますのは、しなくてもいいことを無理にしているということで、しなくてもいいことをするものですから、そこにどうしても無理が生じます。「浄土の業因すくなし」という言い回しにその無理が現われています。
 浄土の業因が多いとか少ないと言うということは、それをこちらで用意することを意味します。われらが用意しなければならないからこそ、それが十分あるとか、まだ足りないという評価になるのです。しかし浄土の因はわれらにあるのでしょうか。われらに因があるから往生でき、なければ往生できないのでしょうか。
 浄土の業因は阿弥陀仏が用意してくださる、これが他力思想の肝です。としますと、それは多いも少ないもありません。ぼくらはただ業因をありがたく受け取るだけです。出世のこころも浄土の業因も弥陀からたまわるのですから、一方が多く、他方が少ないなどということはありません、「みなひとつ」です。


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