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信か行か [『末燈鈔』を読む(その94)]

(13)信か行か

 いかがでしょう、「ほんと?」と思われなかったでしょうか。そんなことが実際にあったのでしょうか。この話はかなり疑わしいと思われます。これは『御伝鈔』に出てくるだけで、『法然上人絵伝』にはもちろん、『歎異抄』にもありません。覚如という人は実質的な本願寺の開設者で(前にも言いましたように、親鸞自身には新しい宗派を開こうなどという意図は毛頭なく、法然の専修念仏を受け継ぐという意識しかありませんでした)、宗祖として親鸞を顕彰する気持ちが非常に強かったと言えます。
 この手紙を知るぼくらとしては、親鸞が「信か行か、どちらかを選んでください」などというはずがないと思います。「信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」ですから。もし親鸞が若気の至りでこんなことをしたとしますと、その場にいた多くの人たちが「その意をこころえざるあり」であったのももっともだと思います。その人たちは、「信か行か」ではなく「信も行も」ではないかと思ったことでしょう。信と行が揃ってはじめて一人前ではないかと。
 「信か行か」という問いが孕む難点については、前に考えたことがあります(1章-15)。「一念か多念か」、「有念か無念か」、「憶念か称名か」など、さまざまな論争がありますが、いずれも「こうでなければならないか、それともああでなければならないか」ということです。「信か行か」も「信でなければならないか、それとも行でなければならないか」と問うているのであり、どちらも「ねばならない」ことと考えられています。しかし、信も行も「ねばならない」ことでしょうか。
 信も行も弥陀仏からの賜りものであるというのが親鸞浄土教のエッセンスです。「行と信とは御ちかいを申なり」というのはそういうことです。信も行も「ねばならない」ものではなく、ただ「ほれぼれと」いただくものです。


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