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空也上人像 [『末燈鈔』を読む(その102)]

(7)空也上人像

 これまたぼくがよく持ち出すことですが、京都東山の六波羅蜜寺に寺の開祖とされる空也上人像があります(足元に空也像が無造作に置かれていましたが、いまもそのままでしょうか)。上向き加減の空也上人の口から、小さな仏が6体流れ出しています。それは空也が称える「南無阿弥陀仏」を形象化しているのです。見事な造形だと思います。その像を見ていますと、空也が「南無阿弥陀仏」を称えているというよりも、「南無阿弥陀仏」が空也の身体を通って流れ出していると感じられます。
 どこかから空也の元に届いた「南無阿弥陀仏」が、空也の身体を温め、またどこかへと流れ出ていく。
 「南無阿弥陀仏」は空気のようなもので、いたるところに遍満しています。そしてそれが空也の胸に吸い込まれますが、そのままそこに留まることはありません。また空也の口から外へ流れ出ます。インプットされた「南無阿弥陀仏」は必ずアウトプットされなければならないのです。こんなふうに「南無阿弥陀仏」は固定的にどこかにあるものではなく、人から人へ次々とリレーされていきます。「南無阿弥陀仏」はリレーの中にしか存在することができないということです。
 空也上人像のすばらしいところは、「南無阿弥陀仏」が6体の仏に造形されていることです。これは、阿弥陀仏という仏は「南無阿弥陀仏」以外の何ものでもないことを表しています。ぼくらは阿弥陀仏と聞きますと西方十万億土におわすとイメージしてしまうのですが、次々とリレーされていく「南無阿弥陀仏」の他にどこにもおわしません。「南無阿弥陀仏」が阿弥陀仏なのです。親鸞は「この如来、微塵世界にみちみちたまへり」(『唯信鈔文意』)と言いますが、「南無阿弥陀仏」が空気のように微塵世界に満ち満ちているということを言っているに違いありません。


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