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摂取不捨ということ [『末燈鈔』を読む(その104)]

(9)摂取不捨ということ

 この手紙は「摂取不捨のこと」という表題がつけられており、しのぶの御房から寄せられた「摂取不捨」を巡る質問に答える形で書かれています。しのぶの御房とは真仏房のことだと考えられています。第4通がその人に宛てられていた、あの下野高田門徒の中心人物です(因みに『末燈鈔』に集められた手紙は、高田門徒に宛てられたものが多いような印象をうけます)。
 さて摂取不捨ですが、これは親鸞浄土教のキーワードの一つで、「信楽開発の時刻の極促」を表すことばとして極めて重要なものです。
 イメージとしては、弥陀の光のなかに包み込まれ、もう見捨てられることがないというところでしょうか。「ああ、救われた」というイメージ。すぐ頭に浮かぶのは『歎異抄』冒頭のあの一句です。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。
 この言い回しでは、信心がさだまったそのとき(すなはち)摂取不捨の利益にあずかるということになります。それがこの手紙文では、「まことの信心のさだまる事は、釈迦・弥陀の御はからいとみえて候。…往生の心うたがひなくなり候は、摂取せられまいらせたるゆへとみえて候」となっています。
 つまり『歎異抄』では「信心さだまる」ことにより「摂取不捨」となるのに対して、この手紙では「摂取不捨」により「信心さだまる」ことになるというように、ことの順序が逆になっているような印象を受けます。親鸞はどちらの言い方もしているということに、何か大事なことが隠されているような気がします。


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