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煩悩と苦しみ [『末燈鈔』を読む(その107)]

(12)煩悩と苦しみ

 不思議なことに出会い「どうしてだろう」と疑問をもつのは、何も近代になってからではありません。人間が人間になって以来ずっとそうしてきたはずです。釈迦は生きることに居心地の悪さを感じ「どうしてだろう」と疑問を抱いて、それを解くためにすべてを捨てたのでした。孔子も世の乱れを見て「どうしてだろう」と疑問をもち、それを解明することに人生を捧げたのでしょう。
 それらと近代的な原因究明とどこがどう違うのか。
 「どうしてだろう」と考えるときに、全体のつながりの中に因果を見出すか、全体から特定の原因を切りとるかの違いです。先に「犯人さがし」と言いました。犯人を特定して、それを叩くと。そのためには犯人(原因)を周りからはっきり切り出さなければなりません。医者が病因を切り取ったり、学校がいじめっ子を排除したりというように。これが原因を究明する手法です。
 一方、全体のつながりの中に因果を見いだすというのは、たとえば釈迦が苦しみの因として煩悩を見いだしたようなもので、煩悩は生きること全体のつながりの中にありますから、そこから煩悩だけを切り取って叩くというわけにはいきません。もし煩悩を切り取って叩くことができるとしますと、なるほど苦しみはそれで消えるでしょうが、生きること自体も消えてなくなります。
 こう言っても同じです、原因と結果は別々ですが、因としての煩悩と苦しみは一体で切り離せません。煩悩があるから苦しみがあるのですが、苦しみがあるから煩悩があるのでもあり、煩悩があることと苦しみがあることは一つです。ですから、「煩悩によって苦しみが生まれる」というより「煩悩を苦しむ」というべきです。


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