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摂取せられまいらせたるゆへ [『末燈鈔』を読む(その108)]

(13)摂取せられまいらせたるゆへ

 戻りまして、信心がさだまることと摂取不捨の利益にあずかることの関係です。「信心がさだまることで摂取不捨の利益にあずかる」と言われますと、つい信心が原因で摂取不捨が結果だと考えたくなるのですが、そうしますといちばん大事なことが取りこぼされることになるのです。
 信心が原因で摂取不捨が結果だとしますと、摂取不捨の利益にあずかるためには信心をもたなければならないという結論になります。「ねばならない」が登場するのです。「ねばならない」ということには、それをすることもしないこともできることが含意されています。信心することもしないこともできるが、摂取不捨にあずかるためには信心しなければならないというわけです。
 これは自力の信心です。
 信心とは本願に遇うことですが、これはそうしようと思ってできることではありません。ふと気がついたら本願に遇っていた、これが信心です。そしてそのとき摂取不捨にあずかるのですが、これまた「もうすでに」摂取不捨にあずかっていることに気づくということです。もうずっと前から摂取されていたのに、これまで気づかなかった、ああ、なんとありがたいことか、と喜ぶのです。
 信心がさだまることと摂取不捨にあずかることはひとつで切り離すことができません。信心がさだまることにより摂取不捨にあずかるというよりも、信心がさだまることが取りも直さず摂取不捨にあずかることです。信心がさだまるから摂取不捨にあずかることができるのは確かですが、でも同時に、摂取不捨にあずかっているから信心がさだまるのでもあるのです。


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