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念仏するということ [『末燈鈔』を読む(その111)]

(16)念仏するということ

 このやり取りで考えさせられますのは、念仏とは何だろうということです。
 真宗のお寺の行事で、住職などのお話(講話)がありますと、それが終わるやいなや聴衆から大きな声で一斉に「なむあみだぶ、なむあみだぶ」の声が上がります。これは一種の儀礼とも言うべきものでしょうが、外部の人間がはじめてこのような場に立ち会いますと、どうしていいか分からずまごついてしまいます。
 あるとき、ぼくの講座を聞いてくださる方がこんなことを言われたことがあります、「先生のお話が終わったあと、“なむあみだぶ”の声が上がらないのはどうしてでしょうね」と。いやはや、思ってもみなかったことを言われて驚いてしまいました。万が一そんなことになったら、ぼくはもうその場から逃げ出したくなるでしょう。
 儀礼としての念仏について考えてみたいと思います。
 どの宗教にもそれぞれの儀礼があります。中でも目立つのはイスラムの礼拝儀礼でしょう。指導者の声にしたがって一斉に同じ動作を繰り返す光景は圧巻です。そんな様子を見ていますと、イスラムというのは共同体の宗教だなあと感じます。もちろん一人で礼拝をすることもありますが、モスクでみんなと一緒に礼拝するのが筋でしょう。その共同性に意味がある。
 そこでは、宗教的儀礼に参加することが、神の救済にあずかる喜びであると同時に、共同体の一員であることを確認する喜びでもあります。
 お寺で一斉に称えられる念仏にもそういう色彩が非常に強いと言えるでしょう。同じ宗教共同体に所属していることを確認して、その絆の強さを喜ぶという側面です。そのとき念仏儀礼が統一されていることが何よりで、称える念仏がバラバラでは具合が悪いと言わなければなりません。


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