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仏はどこに? [『末燈鈔』を読む(その117)]

(4)仏はどこに?

鈴木:経典に一切諸仏がやたらと出てくるね。
曽我:ええ、出てきます。
鈴木:ところが、また一方に一切衆生がある。そうすると、仏がこっちにあって、こっちが衆生というのか。
(中略)
鈴木:書物でなしに、どこにその諸仏菩薩はおられるんです?
曽我:諸仏はここにいます。
鈴木:ええ?
曽我:ここ、ここに。
鈴木:ええ、どこに?ここにおるだろう?
曽我:ええ、ここに。ここというのはこの部屋の中に。『維摩経』によれば、維摩の法堂の中に。そうでありますわね。
鈴木:そん中へわしらもみんな、あなたも入ってくるだろう?
曽我:ええ。衆生もおるし諸仏もおられます。維摩の法堂の中に。そうでありますわね。
鈴木:それでね、無量の諸仏国土があってだね。そうしてそこで諸仏菩薩がどうしたこうしたというけど、あれがはなはだわからんので、わしゃこれをみんなその…。
曽我:いや、それはね人間にはわかりません。それはつまり如来の智願海の…。
鈴木:その人間にわからんというのを、それは人間がいってるんだろう?

 いかがでしょう。鈴木大拙氏は仏と衆生を二元的に捉えることに疑問をぶつけ、曽我量深氏は仏と衆生の言い表しがたい差異に踏みとどまろうとしますが、その丁々発止のやり取りが何ともおもしろい。


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