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再度、二河白道の譬えを [『末燈鈔』を読む(その118)]

(5)再度、二河白道の譬えを

 鈴木大拙氏の立場からしますと、浄土はもうすでにここにあり、仏とはわれら衆生と別ではないということになるのでしょう。しかし曽我量深氏としては、浄土へいくのはあくまでいのち終わってからのことであり、仏になれるのもかの土へ往ってからのことです。われら衆生は煩悩具足の凡夫としてこの娑婆世界にいる、これは動きません。
 しかし、それにもかかわらず、真実信心をえた人は如来とひとしい。ここがいわく言いがたいところで、曽我量深氏は「仏はどこに?」と訊かれて「ここに」と答えながら、しかしわれらと仏とはあくまで別であることを譲るわけにはいかないのです。「二河白道の譬え」が頭に浮かびます。
 広さ四五寸ばかりの白道に踏み出した旅人は、たしかに穢土から一歩離れたとは言うものの、いまだ浄土は彼方にあり、両河から押し寄せる火炎や波浪で先を見通すことはできません。何とも危うい世界です。鈴木大拙氏のように「ここがすでに浄土である」とはとても言えません。
 白道の上はもう穢土ではありませんが、しかし、いまだ浄土でもありません。ということは、いまだ穢土であるとともに、すでに浄土でもあると言うこともできます。これが「浄土にひとしい」ということです。いまだ如来ではありません、がしかし「如来とひとしい」のです。
 さて「自力のこゝろにて、わがみは如来とひとしと」思うと言いますのは、この白道にわが力で一歩踏み出したと考えることでしょう。「これしかない、ここを進もう」と決断して白道に踏み出すとしますと、それは「わが手柄」です。一方、気づいたときにはもう踏み出していたというのが、「他力の信心のゆへに」如来とひとしいということです。ふと「如来とひとし」と気づかせてもらえ、喜びがこみあげてくるとき、「なにかは自力にて候べき」でしょう。


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