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『末燈鈔』を読む(その119) ブログトップ

第16通 [『末燈鈔』を読む(その119)]

(6)第16通

 第16通に進みます。2段に分け、まず第1段。

 なによりも聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしとおほせられそふらふなるこそ、かへすがへすあるべくもさふらはず。北の郡にありし善乗房といひしものに、つゐにあひむつるゝことなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、ひとをもころしなんどすべきかは。もとぬすみごゝろあらんひとも、極楽をねがひ、念仏をまふすほどのことになりなば、もとひがうたるこゝろをもおもひなをしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずといふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ。

 (現代語訳)なにをおきましても、仏教の教えも知らず、また浄土宗の教えの奥深さも知らないまま、正気の沙汰とも思えないような勝手気儘な振る舞いをしているものどもが、思う存分悪いことをすればいいのだと言っているようですが、そんなことは返す返すもあってはならいないことです。わたしが、北の郡にいました善乗房というものと、ついに昵懇の間柄になることはなかったことをご存じでしょう。凡夫だからといって、何でも思うままに振る舞い、盗みや人殺しなどをしていいものでしょうか。もとは盗み心のあるような人も、極楽を願い念仏を申すようになりましたら、もとの間違った心を直そうとするのが当然ですのに、そんなきざしもない人に、悪いことをしても問題ないなどと言うことは、ゆめゆめあってはならないことです。

 親鸞には珍しく、「不可思議の放逸無慚のものども」に対する厳しいことばが出てきました。「悪はおもふさまにふるまふべしとおほせられそふらふなる」ものたちに対して、「かへすがへすあるべくもさふらはず」、「ゆめゆめあるべからずさふらふ」と激しいことばを投げつけています。


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