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どんな悪人も救われる [『末燈鈔』を読む(その121)]

(8)どんな悪人も救われる

 そして、それと絡めて考えておかなければならないのは、「どんな悪人も救われる」という念仏の教えが、世の権力者にとってどれほど危険なものかということです。
 権力者にとって悪人は救われてはなりません。権力者の定めた掟を守る善人だけが救われなければならない。仏教は権力者のためのもので、世の悪人たちのものであってはならないのです。だから朝廷も幕府も、念仏の危険な動きは芽の内につみとっておかなければなりません。
 そんな権力者の目に、「悪を恐れることはない」「悪はおもうさまにふるまえばいい」という跳ね返りは、念仏弾圧の絶好の口実となったのです。
 さてしかし「どんな悪人も救われる」(悪人正機)と「どんな悪をしてもいい」(本願ぼこり)とはどう違うでしょう。「どんな悪人も救われる」なら「どんな悪をしてもいい」のじゃないでしょうか。悪の問題、これは親鸞浄土教を考えるときに避けて通れない、いや、その根幹をなす問題です。
 悪の問題について、釈迦にまで遡って考えておきましょう。
 仏教は一見するところ悪とはすぐには結びつかないような印象があります。仏教といいますと、無我、縁起、空といったタームが頭に浮かび、どれも悪とは関係がないような顔をしています。しかしもっとも古層の仏典(たとえば『スッタニパータ』)を読みますと、そのいちばん大事なキーワードは「わがものへの執着」であることが分かります。「我執」です。
 釈迦が説くのは、われらの苦しみの根源にはこの我執があるということです。我執とはわれらの悪そのもの、いわば原罪ですから、釈迦は最初から悪の問題に取り組んだのです。それがいつしか縁起とか空といった形而上的概念に終始して、もとにあった「我執という悪」が置き去りになっていった。親鸞が悪をその中心に取り戻したのは、釈迦の原点に戻ったといえます。


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