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『末燈鈔』を読む(その125) ブログトップ

第2段 [『末燈鈔』を読む(その125)]

(12)第2段

 第16通の第2段です。

 煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはゞ、煩悩にくるはされたる儀にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。鹿島・なめかたのひとびとのあしからんことをばいひとゞめ、その辺のひとびとの、ことにひがふたることをば制したまはゞこそ、この辺よりいできたるしるしにはさふらはめ。ふるまひはなにともこゝろにまかせよといひつるとさふらふらん、あさましきことにさふらふ。この世のわろきをすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ念仏まふすことにてはさふらへ。としごろ念仏するひとなんどの、ひとのためにあしきことをもし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。されば善導の御をしへには、悪をこのむ人をばつゝしんでとをざかれとこそ、至誠心のなかにはをしへをかせおはしましてさふらへ。いつかわがこゝろのわろきにまかせてふるまへとはさふらふ。おほかた経釈をもしらず、如来の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はず。あなかしこあなかしこ。
 十一月廿四日                             親鸞

 (現代語訳)煩悩に狂わされて、思いがけなくしてはならないことをしてしまい、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思ってしまうものです。しかし、往生に差支えがないからといって、人に腹黒い思いを抱き、してはならないことをしたり、言ってはいけないことを言うのは、煩悩に狂わされてのことではなく、わざとしてはならないことをするのですから、そんなことは返す返すもあってはならないことです。鹿島、行方(なめかた)の人たちが悪いことをしているのをたしなめ、その辺の人たちが間違ったことをしているのを制してこそ、念仏者であることの証しと言えましょう。ところが、どんなこともこころにまかせてしてもいいと言われるとは、何とも浅ましいことです。この世の悪を捨てて、浅ましいことをしないのが、世を厭い念仏を申すということです。長い間念仏をしていましても、人に悪いことをしたり、また言ったりするというのは、世を厭うしるしがないと言わなければなりません。ですから、善導大師は、悪を好む人からは謹んで遠ざかりなさいと、至誠心を説く中で教えてくださったのです。いつ自分の悪い心のままに振る舞いなさいと言われたのでしょうか。およそ経釈も知らず、如来のことも知らないものに、そんなことを言われるはずがありません。謹言。


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