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自分は根っからの悪人 [『末燈鈔』を読む(その127)]

(14)自分は根っからの悪人

 では「どんな悪人も救われる」ということばに突き上げるような喜びを感じるのはどういうときでしょう。「おもはざるほかにすまじきことをもふるま」う自分に「ああ、これは我執という悪そのものではないか」と気づいたときです。自分は根っからの悪人であると思い知らされたときです。そのとき「こんな自分も救われる」と喜びを感じる。
 またもや二種深信です。「自分は根っからの悪人である」と思う「機の深信」と、「どんな悪人も救われる」と思う「法の深信」、この二つはいつも背中合わせにくっついています。ですから「機の深信」のないところに「法の深信」はなく、「法の深信」のないところに「機の深信」はありません。
 「どんな悪人も救われる」のだから「どんどん悪いことをしてやろう」と思う人には、まずもって「機の深信」がないと言わなければなりません。「自分は根っからの悪人である」という気づきがない。さすがに自分を善人とは思っていないでしょう、悪いことをしてやろうと思うのですから。でも、取り立てて悪人とも思っていません、これまでは悪を控えてきたのですから。
 このように「機の深信」がありませんと、「法の深信」もありません。「どんな悪人も救われる」と聞いても、自分自身が悪人であるという自覚がありませんから、他人事としか思えません。そこに突き上げるような喜びが起こる道理がありません。それどころか「そうか、これまでは悪いことをすると罰せられると思っていたが、そうではないんだ」と計算して、遠慮なく悪いことをしようと思う。
 さて、では「どんな悪人も救われる」と聞いて、突き上げるような喜びを感じたときにどんなこころの動きが起こるのでしょう。


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