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この世のわろきをすて [『末燈鈔』を読む(その128)]

(15)この世のわろきをすて

 「どんな悪人も救われる」ことに信をえた人は、「この世のわろきをすて、あさましきことをもせざらんこそ」と親鸞は言います。悪いことをしようとしている自分をとどめ、悪に手を染めようとしている人をみれば「いひとゞめ、…制したまはゞこそ」と言う。このこころの動きに思いを巡らせてみましょう。
 「生きることそのものが我執という根源悪である」と気づかされたことと「この世のわろきをすて、あさましきことをもせざらん」と思うことはどう結びつくのでしょう。「自分は根っからの悪人である」にもかかわらず、どうして「悪いことはしないように」と思えるのでしょう。
 ここでもう一度先の「〈おもはざるほかに〉すまじきことをもふるまひ」と「〈わざと〉すまじきことをもせば」の区別に目を向けたいと思います。
 ぼくらはその存在がまるごと我執ですから、自分ではそんなふうに思っていなくても〈おもはざるほかに〉「あさましきこと」をしています。でも、そのことと、自分でこれは「わろき」ことと自覚しながら〈わざと〉「ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをも」言うのとははっきり分けなければなりません。
 さて、「どんな悪人も救われる」という声が届き、「ああ、なんとありがたい」と喜べても、なお「〈おもはざるほかに〉すまじきことをふるまふ」ことはあるでしょう。しかし「〈わざと〉すまじきことを」するのは避けるようになるのではないでしょうか。「こんな自分も救われる」のだから「できるだけ悪いことはしないようにしよう」と思うのが自然でしょう。
 根っからの悪人だと思うから、悪を避けようと思うのです。

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