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相対のめがね [『末燈鈔』を読む(その132)]

(4)相対のめがね

 ちょっと厄介な問題に首を突っ込むことになりますが、ここで「相対的」ということについて考えておきたいと思います。ぼくらが生きているのは相対的な世界だと言われます。この世に絶対的なものなど何ひとつなく、みな他のものとの比較においてあると。これはしかし世界そのものが相対的な構造をしているということではなく、ぼくらが世界を相対的に見ているということです。
 前に述べましたように(2章-9、10)、相対的に見るということは「ものさしを当てる」ということです。賢愚・善悪・美醜などのものさしを当ててひとやものを見るということ。その結果、あらゆるものごとが相対的に見え、上には上があるし、下には下があるということになります。これは世界がもともとそのようになっているというより、ぼくらが世界をそのように見ているのです。
 「ものさしを当てる」と言うより「相対のめがねを掛ける」と言った方が分かりやすいかもしれません。相対のめがねを掛けて世界を見れば、すべてが相対的に見えるのは当たり前のことです。ぼくらが相対のめがねを掛けることを選んだのは、生きる戦略として、その優位性に気づいたからに違いありません。それはわれらの祖先が二足歩行を生存の戦略として選択したのと本質的に同じことです。
 以来、ぼくらは相対のめがねを掛けて世界を見ることになり、したがってありとあらゆることが否応なく相対的であることになります。
 さてしかし、こんな疑問が出されるでしょう。いやに断定的に、ぼくらが相対のめがねを掛けているから世界が相対的に見えると言うけれども、何の根拠でそんなことが言えるのか、と。世界そのものが相対的にできているのではないのか。そもそも自分が相対のめがねを掛けていることがどうして分かるのか、と。


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