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相対のめがねは見えない [『末燈鈔』を読む(その133)]

(5)相対のめがねは見えない

 このめがねは取り外し自由なものではなく、目に組み込まれているもの、いわばぼくらの目そのものです。そしてぼくらは自分の目を見ることはできません。鏡に映せば自分の目を見ることができるじゃないか、あるいは、写真に取れば目の特徴を子細に観察できると言われるかもしれません。
 なるほど瞳の色が黒であり、まぶたは一重で、さほど大きな目ではない等々のことは見ることができますが、その目が相対の目であることはどう頑張っても見ることはできません。何を見るにせよ、そして間接的に自分の目を見るにせよ、それを見るのは自分の相対の目でしかないのですから。
 ぼくらは「外に出る」ことができないのです。ためしに自分の部屋の外に出たとしましょう。しかしそれは自宅の中です。自宅から外に出たとしても、それは町内であり、町外に出たとしても、市内であり…、たとえこの宇宙の外に出たとしても、そこはわれらには未知の大宇宙の中に過ぎません。どこまで行っても、あくまでも中であって外ではありません。
 さてそうしますと、どうしてぼくらの目は相対の目であると言えるのでしょう。それは目の外に出てはじめて言えることではないのでしょうか。
 ややこしい話が続いて恐縮ですが、もう一度ゼノンの「飛ぶ矢」に戻りますと、ゼノンは、矢が飛ぶのはあたり前なのに、飛ぶ矢の軌跡にものさしを当てて、中点を取っていくと、その作業には切りがないことに思い至り、切りがない中点を通過するのは不可能だから、実は矢は飛ばないと考えざるをえなくなったのでした。矢は飛ぶが、しかし実は飛ばない。このパラドクスこそ問題解決の鍵を与えてくれます。
 矢が飛ぶことそのものに何の不思議もありません。それが俄然なんとも不思議に見えてくるのは、ぼくらがそこに「ものさしを当てる」という作業、あるいは「相対のめがねを掛ける」という操作をしているからです。それを裏返して言いますと、何の不思議もなく飛んでいた矢にパラドクス(理屈に合わないこと)が生じることにより、相対のめがねの存在が浮かび上がるのです。


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