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『末燈鈔』を読む(その136) ブログトップ

第18通 [『末燈鈔』を読む(その136)]

(8)第18通

 2段に分け、まず第1段。

 御たづねさふらふことは、弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこゝろのさだまるとき、摂取してすてられまいらせざるゆへに、金剛心になるときを正定聚のくらゐに住すともまふす。弥勒菩薩とおはじくらゐになるとも、とかれて候めり。弥勒とひとつくらゐになるゆへに、信心まことなるひとをば、仏にひとしともまふす。
 また諸仏の真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなり、ととかせたまひてさふらふなり。『大経』には釈尊のみことばに「見敬得大慶則我善親友」とよろこばせたまひさふらへば、信心をえたるひとは諸仏とひとし、ととかれてさふらふめり。また弥勒をば、すでに仏にならせたまはんことあるべきにならせたまひてさふらへばとて、弥勒仏とまふすなり。しかればすでに他力の信をえたるひとをも、仏とひとしとまふすべし、とみえたり。御うたがひあるべからずさふらふ。

 (現代語訳)おたずねのことですが、弥陀の誓願に遇うことができ、真実の信心を賜って喜ぶ心が湧き上がったそのとき、救いとってくださり、もう捨てられることはないのですから、金剛心になるときを正定聚の位になるとも言うのです。弥勒菩薩と同じ位になるとも説かれています。弥勒とひとつの位になるのですから、信心がまことになった人を仏に等しいとも言うのです。
 また諸仏が、真実の信心を得て喜ぶのをご覧になってまことに喜ばれ、わたしと等しいものと説かれているのです。『無量寿経』では、釈尊のことばとして「見て敬い、得て大いに慶べば、すなわち我が善き親友なり」と喜ばれていますから、信心を得た人は諸仏と等しいと説かれているのです。また弥勒はすでに仏になることに定まっているのですから、弥勒仏と言うのです。ですから、すでに他力の信心を得た人も仏に等しいと言うのです。お疑いになってはなりません。


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