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ただいま [『末燈鈔』を読む(その138)]

(10)ただいま

 「誓願にあひたてまつりて」の「あふ」は「遇ふ」であって、「会ふ」ではないでしょう。あおうと意図して会うのではなく、思いがけずばったり遇うのです。『教行信証』序の「多生にもまうあひがたく」は「値ひがたく」であり、「あひがたくして」は「遇ひがたくして」です。どちらも「こちらから」会いに行くのではなく、「向こうから」やってくる誓願にたまたま遇うのです。それはこれまで繰り返し述べましたのでいいでしょう。
 ここでぜひ着目したいのは「あひたてまつりて」という表現にこもっている「ただいま」の感覚です。
 どこに「ただいま」があるのかと言われるかもしれませんが、「誓願にあふ」のは「ただいま」でしかないということ、ここに親鸞浄土教の「つぼ」があります。『歎異抄』第1章の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」の「すなはち」です。あるいは、すぐ前にだしました『教行信証』序の「あひがたくしていまあふことをえたり」の「いま」です。
 「すなはち」や「いま」にあたるものは何かと言われたら、ぼくは「あひたてまつりて」の「て」を上げたいと思います。「て」は言うまでもなく接続助詞で、前の文と後ろの文をつなぐ役割をしています。「春すぎ〈て〉夏きたるらし」です。しかしこの「て」の出自をたどりますと、完了の助動詞「つ」の連用形だとされます。そして助動詞「つ」は「ただいま」というニュアンスです。「春すぎて夏きたるらし」も、たったいま季節が春から夏へと移ってしまったということでしょう。
 「誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりて」と「て」が繰り返されますが、そのなかに「ただいま」がこもっています。


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