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「ただいま」は「もうすでに」 [『末燈鈔』を読む(その140)]

(12)「ただいま」は「もうすでに」

 しかし、誓願に遇うのは「ただいま」でしかないということにどんな意味があるというのでしょう。なぜそれが親鸞浄土教の「つぼ」なのでしょう。もう一度、手紙の「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこゝろのさだまるとき、摂取してすてられまいらせざるゆへに、金剛心になるときを正定聚のくらゐに住すともまふす」に戻ります。
 この文の「誓願にあひたてまつりて」と「真実の信心をたまはりて」と「よろこぶこころのさだまる」と「摂取してすてられまひらせざる」と「金剛心になる」と「正定聚のくらゐに住す」とは、みな「て」でつなぐことができます。「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつり〈て〉、真実の信心をたまはり〈て〉、よろこぶこゝろのさだまり〈て〉、摂取してすてられまいらせざり〈て〉、金剛心になり〈て〉、正定聚のくらゐに住す」と。
 つまり「誓願にあひたてまつりて」、「真実の信心をたまはりて」など「て」でつながれていることはみなひとつということです。ひとつのことをいろいろな角度から述べているだけで、すべて「ただいま」のことです。「ただいま」誓願にあひたてまつり、「ただいま」真実の信心をたまはり、「ただいま」摂取不捨にあずかり等々、すべてが「ただいま」であるということです。
 そして、「ただいま」起こったということは、「もうすでに」起こってしまっていることに「ただいま」気づいたということに他なりません。
 ふと気づいたら「もうすでに」誓願に遇ってしまっており、「もうすでに」真実の信心をたまわってしまっており、「もうすでに」摂取不捨にあずかってしまっている。これが他力ということです。「もうすでに」救われてしまっている、それに「ただいま」気づいた、これが他力です。


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