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ちからおよばずさふらふ [『末燈鈔』を読む(その142)]

(14)ちからおよばずさふらふ

 臨終を期し来迎を待つということについては、すでに第1通で「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり」と述べられていました。救いは「たったいま」にしかないのに、それを「これから」に期すのは「自力の念仏」だということです。それはもう繰り返す必要はないでしょう。
 問題は、臨終を期し来迎を待つ人にどう対処したらいいかということです。
 親鸞は「いかんともしがたい」と言います。『歎異抄』2章にこうありました、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」。このことばはなにか冷たい感じがするかもしれません。信心がさだまらず、自力の念仏をウロウロしている人に対して手を差し伸べて助けてあげればいいのに、突き放しているような印象を与えます。
 しかし「ちからおよばずさふらふ」と言い切るのが親鸞です。
 高校教師時代を思い出します。もう自分をどうしていいか分からず、自暴自棄になって問題行動を繰り返す生徒を前にして、この生徒をどうすれば立ち直させることができるだろうと躍起になっていました。ここは厳しく叱らなければならないだろう、いや、一々目くじらを立てるのでは逆効果になるか、などと考えあぐねる日々でした。しかし「何とかしてやろう」と思えば思うほど生徒との関係はこじれていきます。
 ぼくがこの生徒を立ち直らせることができる、いや、立ち直らせなければならない。この思いが問題の解決を妨げていたのです。生徒が立ち直るのは生徒自身の力であり、それを信じて傍に寄り添うしかないのですが、それができず、わが力で生徒を更生させようともがいていたのです。


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