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たまたま [『末燈鈔』を読む(その143)]

(15)たまたま

 もし臨終を期し来迎を待つ人を何とかして真実の信心をえさせてあげようとしたらどうでしょう。「あなたは自力の念仏をしておられますが、それでは何ともなりません。他力の念仏にならなければ」と言うに違いありませんが、相手はきっとこう応じるでしょう。「わたしは弥陀の力を信じて、臨終を期し来迎を待っているのです。それがどうして自力の念仏でしょうか」と。
 本願に遇うことができたかどうか、ここにすべてがかかっています。
 本願に「あひがたくしていまあふことをえた」ら、それはもう「摂取してすてられまいらせざ」ること、すでに「正定聚のくらゐに住す」ことです。だから臨終を待つことはありません。しかし、いまだ本願に遇うことができていない人にそれを何度言っても馬の耳に念仏で、どうにも「ちからおよばずさふらふ」です。
 でも、何度も言うようで恐縮ですが、その人も本願に遇うことができないわけではありません、いまだ遇うことができていないだけです。親鸞としても、自分の力で遇うことができたのではなく、「たまたま」遇うことができただけですから、そこに誇りとすることがあるわけではありません。自分は「たまたま」遇うことができ、あなたは「たまたま」遇うことができていない、ただそれだけです。
 そして、この「たまたま」は、「これまでのところ」に限定されています。ぼくは「たまたま」日本人に生まれ、中国人に生まれなかったのは、もう取り消しようがありません。でも、あなたが「たまたま」本願に遇うことができていないのは、「これまでのところ」にすぎません。「これから」いつでも遇うことができるのです。だから、あなたがいつの日か本願に遇うのを待つことができます。ただ待つことしかできませんが。(第9章 完)

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