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Das ist gut [『末燈鈔』を読む(その147)]

(4)Das ist gut.

 中学のとき、変った数学教師がいました。
 先生が教室に入ってきますと、生徒たちはみな起立して「礼!」をするものですが、その先生は教壇に立つや、ただちに黒板に数学の証明問題を書き始めるのです。「ぼくは礼が嫌いだから、登校するときにぼくに会っても礼などしてくれないように」と言われます。そしてもっと驚かされたのは、たとえばピタゴラスの定理の証明を黒板に書いている途中に授業終了のチャイムが鳴ると、証明はそのままで、背広をかかえてさっさと教室から出ていかれるのです。ぼくらは呆気にとられていました。
 その先生は,もっと数学の勉強がしたいと京大の大学院に入られ、ぼくらのもとから去っていかれましたが、その離任式の挨拶が強烈に印象的でした。「ドイツの大哲学者カントは死ぬとき“Das ist gut”と言ったそうです。“これでよし”という意味です。ぼくも死ぬときにはそう言いたいなと思います。ではさようなら」。このことばはなぜかぼくのこころにしっかり刻み込まれました。
 「往生の本意をとげる」とは、源信のように「これから」浄土へ往くことではなく、「これまで」生きてきた中で「南無阿弥陀仏にあひまいらせ」たと喜ぶことに違いありません。南無阿弥陀仏に遇うことができ、おかげでいい人生を送ることができたと喜んでいる。まさに“Das ist gut”です。それが思わず口をついて出て「南無阿弥陀仏」となります。これが「往生の本意をとげる」ことではないでしょうか。
 「南無阿弥陀仏にあひまいらせる」という言い回しも珍しい。前章で「誓願にあひたてまつる」という言い回しに着目しましたが、誓願に遇うことは名号すなわち南無阿弥陀仏に遇うことに他なりません。「一切衆生を救いたい」という弥陀の願いが「浄土へ帰っておいで」という弥陀の声に具体化されているのですから、誓願も名号も「ただひとつなるべし」(『歎異抄』第11章)です。


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