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『末燈鈔』を読む(その148) ブログトップ

第19通第2段 [『末燈鈔』を読む(その148)]

(5)第19通第2段

 おほかたは、としごろ念仏まふしあひたまふひとびとのなかにも、ひとへにわがおもふさまなることをのみまふしあはれて候ひとびともさふらひき。いまも、さぞさふらふらんとおぼえさふらふ。明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこゝろをもひるがへしなどしてこそさふらふ(ママ)しか。われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくもさふらはず。貪欲の煩悩にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果をやぶるこゝろもおこり、愚痴の煩悩にまどはされておもふまじきことなどもおこるにてこそさふらへ。めでたき仏の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことをもし、おもふまじきことどもをもおもひなどせんは、よくよくこの世のいとはしからず、身のわるきことをおもひしらぬにてさふらへば、念仏にこゝろざしもなく、仏の御ちかひにもこゝろざしのおはしまさぬにてさふらへば、念仏せさせたまふとも、その御こゝろざしにては順次の往生もかたくやさふらふべからん。

 (現代語訳)大体、これまで長い間念仏をしてこられた人々の中にも、ひたすら自分の思いを押し通してこられた方々もおられました。今も、さぞそうだろうと思います。明法房が往生されましたのも、元はとんでもない悪事をしてやろうという心があったのを翻したからです。自分は往生できるのだからと、してはならないことをしたり、思ってはならないことを思ったり、言ってはならないことを言ったりするのはあってはならないことです。貪欲の煩悩に狂わされて欲が起こり、瞋恚の煩悩に狂わされて妬むべきでもないことを妬み、愚痴の煩悩に惑わされて思うべきではないようなことが起こったりするのです。有難い仏のお誓いがあるからといって、わざとしてはいけないことをしたり、思ってはいけないことを思ったりするのは、よくよくこの世を厭わしく思わず、己の身の悪いことを思い知っていないからです。念仏に志もなく、仏のお誓いを心から信じてもいませんから、念仏をするとはいえ、そんなお気持ちでは来世の往生も難しいのではないでしょうか。


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