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十劫安心 [『末燈鈔』を読む(その149)]

(6)十劫安心(じゅっこうあんじん)

 手紙がいよいよ本題に入りまして、「誓願によって往生できることが定まっているのだから、もう何をしてもいいのだ」という造悪無碍の考え方に対する批判が始まります。明法房の往生が話題にされたのも、この本題に入るための導入になっていたのだと了解できます。親鸞を憎み、害そうとまではかった人物が、みごと往生の本意をとげることができたのも「不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこゝろをもひるがへしなどしてこそ」のことで、己の「身のわるきことをおもひ」しるのが肝心だと説いていくのです。
 この造悪無碍については第16通のところでかなり立ち入って論じました(8章-7~15)。その結論をひと言でいいますと、造悪無碍には「機の深信」がないということでした。「機の深信」がないところに「法の深信」もなく、したがって胸の底から突き上げるような喜びもありません。「どんな悪人も救われる」を法律の条文のように受けとり、「ならば悪をするのに遠慮はいらない」と打算しているのです。
ここでは違う角度からこの問題に迫りたいと思います。
 蓮如の時代(15世紀)の北陸に「十劫安心」という考えが蔓延していたらしいことが蓮如の「御文」から窺うことができます。蓮如はこれを繰り返し批判しているのです。「十劫安心」とは「どんな悪人も救われる」という本願が十劫の昔に成就しているのだから、どんな生き方をしようが必ず往生できるという考えです。ことばは違っても、以前の「本願ぼこり」あるいは「造悪無碍」と同じであることが分かります。
 蓮如はこれを次のように批判しています、「“十劫正覚のはじめより、われらが往生を、弥陀如来のさだめましましたまえることを、わすれぬがすなわち信心のすがたなり”といえり。これさらに弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。されば、いかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生をさだめたまえることをしりたりというとも、われらが往生すべき他力の信心のいわれをよくしらずば、極楽には往生すべからざるなり」と。


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