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主体的真理 [『末燈鈔』を読む(その151)]

(8)主体的真理

 主観的・客観的というとき、ある共通のコード(規範、法典)が前提されています。そのコードに照らして、あの人の言うことは主観的だが、この人は客観的だと判定されます。主観的とはコードを無視して勝手なことを言うことであり、客観的とはコードを遵守していて、だからみんなが納得できるということです。したがって「みんな」と言っても、一定のコードを共有しているみんなであり、別のコードで生きている人たちはその中に入ってきません。
 先に真理は客観的でなければならないと言いましたが、それはどこまでも一定のコードを共有する世界の中でのことです。日本では客観的に認められることでも、他のアジア世界においてはまったく通用しないこともあり、アジアでは常識とされることも、ヨーロッパにおいては非常識かもしれません。それは空間的のみならず、時間的にも言えることで、ある時期においては客観的に正しいとされていたことも、別の時期には当てはまらないことはいくらでもあります。
 一方、主体的・客体的とは、それとはまったく別のことです。ある人が主体的であるとは、キルケゴールの言う「単独者」として生きるということです。ぼくらは否応なくある共同体に属しますが(家族・地域社会・民族・国家など)、そしてそこには特定のコードがあり、それにしたがうことが求められますが、同時に、そのコードから超越的に生きることができます。コードから逸脱するのではありません(それは主観的です)、超越的に生きるのです。その生き方が「単独者」です。
 客体的についてもひと言述べておきますと、それは主体的の反対概念として、属している共同体にどっぷり泥んでいることです。特定のコードを特定のコードと自覚することもなく、それと一体化して疑いをもつこともありません。いわば母親の懐にいだかれてこころ安らかな状態ですが、その安逸を邪魔されると、ときに恐ろしい牙をむき出します(ナショナリズム)。


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