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機法一体とは [『末燈鈔』を読む(その156)]

(13)機法一体とは

 さて「信心(機)と本願(法)は一体である」ということをどう理解するか、道は二つに分かれます。
 一つは、信心があってはじめて本願があり、本願があってはじめて信心がある、つまり信心と本願の二つがそろってはじめてそれぞれが働くという理解です。この理解では、機の信心がなければ法である本願は働くことができませんから、弥陀の働き(他力)だけではだめで、われらの働き(自力)が必要ということになります。「他力だけでなく自力も」ということです。
 これは端的に言って、自力の立場です。救い(往生)は弥陀から賜るというものの、そこにはわれらの信心がなければならないというのですから、結局のところ救いは自力でつかみ取らねばならないということです。「この大会で優勝した人には知事から賞金が与えられる」場合、なるほど賞金は知事から与えられますが、しかし本質的には優勝した人がみずからの力でゲットするのです。
 しかし、それとはまったく別の理解があります。そしてそれが「機法一体」の本来の理解です。
 機の信心と法の本願は同一のものであるという理解です。一方に信心があり、他方に本願があって、この二つが「一体となる」というのではなく、信心と本願は「もともと一体である」ということです。つまり、信心はそのまま本願であり、本願はそのまま信心であるということ。信心といい、本願というのは、同じものを表から見るか、裏から見るかの違いにすぎないのです。
 「南無阿弥陀仏」の中に信心と本願が一体となって与えられているのです。


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