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同座せざれ [『末燈鈔』を読む(その159)]

(16)同座せざれ

 手紙の中に善乗房という人が出てきました。第16通にも出てきた人物ですが、「親をのり、善信(親鸞です)をやうやうにそし」ったとあります。往生の本意をとげた明法房も、もとは親鸞に害心を抱いたことがあるのもよく知られていたことでしょう。このように「無明の酒にゑひ」、悪意をもって害をなそうとする人物が身のまわりにいるとき、どう対処したらいいか。
 親鸞は「同座せざれ」と言います。善導もそのように言っているのですが、親鸞の基本的なスタンスは、己の悪からも他人の悪からも「遠ざかれ」というものです。『末燈鈔』には収録されていませんが、他の手紙で念仏に対する弾圧のことが出てきます。東国の念仏者から問い合わせがあったものと思われます、「念仏をとどめようとする動きがあるのですが、どうしたものでしょうか」と。
 それに対して親鸞は、念仏を妨げようとするのは「ところの領家・地頭・名主」だとして、彼らが念仏を止めようとするのは「世のならい」だから、とくに驚くことではないと言います。そして「そのところの縁つきておはしましさふらはば、いづれのところにてもうつらせたまひさふらふ」と言うのです。これは非常に消極的に見えます、弱腰だと思えます。そして押さえつけようとするものには立ち向かっていくべきではないかと思います。
 しかし、悪と闘うのではなく、悪から遠ざかる。
 ここには悪に対する深い諦念(「あきらめ」であると同時に、「明らかにみる」ことです)があります。そもそも自分は悪人なのです。悪人である自分が悪と闘うことなどできようはずがありません。ぼくらができるのは自分が悪人であることを腹の底から思い知ることです。そしてそのことがおのずと「悪から遠ざかる」ことにつながるのです。
 (第10章完)

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