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くすりあり、毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはず [『末燈鈔』を読む(その161)]

(2)くすりあり、毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはず

 この手紙には建長4年2月24日の日付けがあり、親鸞80歳のときに書かれたものであることが分かります。日付けの分かる手紙の中では第1通の建長3年に次いで新しいものです。そしてその内容は第19通とほぼ重なり、一通は奥郡、北の方(常陸国の北の地方)に出され、これは「鹿嶋、行方、南の庄」(常陸国の南の地方)に出されたものと思われます。造悪無碍の跳ね上がりに対する心に響く訓戒の手紙です。
 なかでも「くすりあり、毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはず」が光っています。「貪欲・瞋恚・愚痴の三毒」に対して、本願は「阿弥陀仏のくすり」であるとし、造悪無碍とは「本願というくすりがあるのだから、思う存分、三毒をこのみ飲めばいいのだ」という言い分に他ならず、それがいかに「あるべくもさふらはず」かを述べているのです。
 唯円は『歎異抄』第13章にこのことばを引用しています。「そのかみ邪見におちたるひとあ(り)て、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり」。
 ただ『歎異抄』13章を読むとき注意しなければならないのは、唯円が異義として退けようとしたのは本願ぼこりそのものではないということです。むしろ、悪をおそれないのは本願ぼこりだから往生できないと言って善人ぶることこそ、本願を疑っているのだと批判しているのです。この辺の唯円の説き方がかなり複雑で、うっかり取り違えをしてしまいがちのところです。本願ぼこりを批判するのと、本願ぼこりをばかにして賢善精進ぶるのを批判するのと、ことはかなり微妙だと言わなければなりません。


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