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わがものへの執着 [『末燈鈔』を読む(その164)]

(5)わがものへの執着

 倫理と宗教は水と油のように静かに上下の層をなすのではなく、動的に絡み合っているのではないでしょうか。倫理が終るところに宗教がはじまるのではなく、倫理的に生きることが取りも直さず宗教的に生きることであり、宗教的に生きることがそのまま倫理的に生きることではないか。しかも両者の絡み合いはきわめて複雑なものに違いありません。なにしろ「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」なのですから、一筋縄でいくものではありません。
 あらためて釈迦の出発点が「わがもの」に対する着目にあったことを思い返し、釈迦が倫理的問題にこだわり続けたということに留意したいと思います。
 悪の問題です。普通、釈迦は苦の根源に「わがもの」への執着を見たとされますが、それを悪の根源として捉え返すことができます。つまり釈迦はすべての悪の根源に「わがもの」への執着があると考えのではないかと。仏教で悪といえば「十悪」ですが、それは身(からだ)・口、意(こころ)の三業にわたります。
 身業=生きものを殺すこと(殺生)・盗むこと(偸盗)・姦淫すること(邪淫)。
 口業=嘘を言うこと(妄語)・二枚舌を使うこと(両舌)・悪罵すること(悪口)・駄言すること(綺語)。
 意業=貪ること(貪欲)・怒ること(瞋恚)・邪見にふけること(愚痴)。
これらすべての悪の根っ子に「わがもの」への執着があるのではないでしょうか。つまりわれらの根源悪は「わがもの」の観念ではないか。
 これにはただちに反論があるでしょう。「わがもの」への執着から悪が生まれるのはその通りかもしれないが、「わがもの」への執着そのものが悪というわけではないだろうと。そもそも「わがもの」に執着するのは当たり前で、執着しない方がどうかしていると言われるかもしれません。「わがもの」として大事にしているものが無くなったりすると、身も世もなく悲嘆にくれるのは人の情としてまことに自然で、それがどうして悪なのか。
 「わがもの」への執着そのものが悪なのではなく、「わがもの」でもないものを「わがもの」とするのが悪なのではないか。


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