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殺生は悪か? [『末燈鈔』を読む(その167)]

(8)殺生は悪か?

 殺人は端的に悪であると言えます。では「生きものを殺すこと(殺生)」はどうか。殺人はごく日常的に起こっていると言いましたが、でもそれをするのは限られた人でしょう。ところが殺生はほとんどの人が毎日しています。肉や魚を食べる以上、自分の手で殺生をしなくても、間接的にそれをしているからです。さて、わがために、生きもののいのちを奪うのも、それを「わがもの」にすることです。
 これがどうして悪なのか。
 「わがもの」であるかどうかは、他の人たちの承認にかかっているのでした。生きもののいのちを「わがもの」として食うのは、他の人たちから承認されるか。されるでしょう。他の人たちもそうしているのですから。ならばどうしてこれが悪とされなければならないのでしょう。問題は「他の人たち」にあります。パレスティナ紛争で、「わが土地」であることを承認してくれる「他の人たち」がイスラエル人に限定されるか、そこにパレスティナ人も含まれるかが問題でした。同じように、ここでも「他の人たち」の範囲が問題となります。
 生きもののいのちを「わがもの」とすることを承認してくれる「他の人たち」が人間に限定されるか、それとも動物たちも含まれるか。
 「他の人たち」に動物を含めるのは如何にもおかしいと言われるかもしれません。とりわけアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教をふくめてそう言います)においては、人間と他の動物との間には截然とした差があります。動物たちは人間のために存在しているのであって、それを同列に論じることはできません。でも輪廻の世界に生きるわれらには、輪廻そのものを認めるかどうかは別として、われらと動物たちとの間に一体感があります。「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな生きているん、友だちなんだ」の感覚です。
 その感覚からしますと「他の人たち」の中に「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって」入ってきてもおかしくありません。


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