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またしても二種深信 [『末燈鈔』を読む(その169)]

(10)またしても二種深信

 「機の深信」が倫理的煩悶に他ならないことは明らかです。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」ということばは、倫理的煩悶を言い尽くして余りありません。ただこの煩悶は自分の中からおのずとわきおこってくるのではなく、必ずそこに「他者の顔」(レヴィナス)があることを忘れるわけにはいきません。
 「他者の顔」がぼくらに悪の自覚を促すのです。
 ところが「機の深信」がそのまま「法の深信」であるという不思議があります。「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」ということばは宗教的法悦をうたい上げています。「他者の顔」はぼくらの悪を暴き立てるのですが、その同じ「他者の顔」がぼくらに赦しと救いを約束してくれるのです。
 悪の悲しみがそのまま赦しの喜びであるという不思議。悲しみが終ったところで喜びが始まるのではありません、悲しみがそのままで喜びなのです。
 「くすりあり、毒をこのめ」に戻りますと、ここには「くすりあり」に対する喜びも「毒をこのむ」ことへの悲しみもありません。「毒をこのむ」ことへの倫理的煩悶があるところに「くすりあり」の宗教的法悦もあるのに、ここにはそのどちらも見当たりません。「他者の顔」に気づくことなく、くすりがあるのだから、毒をこのんでもいいではないかと打算しているだけのことです。
 「くすりあり」の宗教的法悦がありますと、「この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめす」に違いありません。その意味でも、倫理が終ったところに宗教が始まるのではなく、宗教のあるところに倫理もあると言わなければなりません。悪人正機は決して倫理を否定するのではありません、倫理を支えるのです。

(第11章 完)

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