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「わたし」であるということ [『末燈鈔』を読む(その173)]

(4)「わたし」であるということ

 自由であることはどうあっても証明できませんが、しかしぼくらは紛れもなく自由だと感じています。
 ですから、自由はないなどと言われたり、さらには自由がないかのように扱われたりしますと、耐えがたく感じます。たとえば障害者が「おまえたちは社会の厄介者だから、大人しく社会のお慈悲をこうむっていればいいのだ」などと言われますと、自分の存在が否定されたような気持ちになるでしょう。自由であるということは人間として生きていることに他なりませんから、自由を否定されますと人間としての存在を否定されたように感じるのです。
 それをこう言い換えることもできます、自由であるということは「わたし」であるということですから、自由を否定されることは「わたし」を否定されることだと。
 ぼくらはみな「わたし」であるというのはどういうことかを了解しています。どんなに酔っ払っても、どんなに精神が錯乱しようと、自分が「わたし」であることを間違えることはありません。哲学者の中島義道氏はこう言います、「自分のことを“アインシュタイン”と思い込んでいようが“キリスト”と信じていようが、自分を“あなた”とか“私たち”と呼ぶことはない」と。
 では「わたし」であるとはどういうことでしょう。
 それは端的に言って、昨日の自分も今日の自分も同じであるということです。自己同一性、これが「わたし」です。ぼくらはみな自己同一的な「わたし」があると確信しています。昨日の「わたし」は今日の「わたし」と同じであることを疑う人はいません。しかしほんとうにそうか。


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