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動物に「わたし」はあるか? [『末燈鈔』を読む(その175)]

(6)動物に「わたし」はあるか?

 さて回向です。ぼくらが回向するのではなく、「法蔵菩薩われらに回向したまへる」ということ、ここに親鸞のコペルニクス的転回があるのですが、これをどう了解すればいいのか。ぼくらにとっていちばん大切なことは(果としての往生も、因としての信心・念仏も)みな法蔵菩薩から与えられ、ぼくらはそれを「ただほれぼれと」受け取るだけであるということ、これを何のひっかかりもなく腹に収めることができるかどうか。
 「法蔵菩薩って誰のこと?」とか「そんなこと信じられないよ」とかいった疑問より前に、「もしすべてが法蔵菩薩からとしたら、“わたし”はどうなるの?」という異議申し立てが出ないかということです。「わたし」の存在を見くびることはできません、いつでもどこでもしゃしゃり出てきて自己主張します。なにしろ「わたし」の存在の上にぼくらの生存の一切が成り立っているのですから。
 突然ですが、動物に「わたし」はあるでしょうか。
 「わたし」とは、昨日の自分も今日も自分も同じ「わたし」という、自己同一的な「わたし」のことですから、「わたし」があるためには昨日・今日という時間の観念がなければなりません。さて動物に時間の観念はあるでしょうか。そりゃあるに決まっているよ、飼い犬が何日も主人と会わずにいても、主人を忘れないということは、彼らは過去を記憶しているということじゃないか、という答えが返ってきそうです。
 確かに飼い犬は自分の主人を見間違えることはありませんが、しかしそれで犬に過去の観念があることにはなりません。過去の観念があるとは、たとえば「いま主人はうちにいないが、1時間前にはいた」ことを了解することです。さて犬にそんなことができるかどうか。犬に聞いてみなきゃ分からないでしょうが、彼らに時間の観念があるようには思えません。そして、時間の観念がないとしたら、「わたし」もないのではないか。


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