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『末燈鈔』を読む(その178) ブログトップ

行にあらず、善にあらず [『末燈鈔』を読む(その178)]

(9)行にあらず、善にあらず

 『末燈鈔』最後の書簡です。
 短く約められた文ですので、その意を汲むのに一苦労します。まず『宝号経』ですが、石田瑞麿氏によりますと、この名の経典は存在せず、『弥陀経義集』という書物に『宝号王経』の名があって、その中に「非行非善、但持仏名故(行にあらず善にあらず、ただ仏名をたもつがゆへに)」という文があるそうです。親鸞はこの文を念頭においているのだろうと思われます。
 さて「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、たゞ仏名をたもつなり」ですが、これを読んですぐ頭に浮かぶのは『歎異抄』8章の「念仏は行者のために非行非善なり」ということばです。『歎異抄』8章はこう続きます、「わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり」。
 まったく同じ趣旨と理解して間違いないでしょう。ですから「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず」とありますが、これは「弥陀の本願〈の念仏〉は行にあらず、善にあらず」と補って読むべきです。そうすることで、すぐあとの「たゞ仏名をたもつなり」とうまくつながります。念仏は、われらの行として、あるいはわれらの善として仏名を称えるのではなく、ただ仏名をたもつだけ、ということです。
 そして次に「名号はこれ善なり」とつづきます。われらが仏名(名号)を称えることが善であるのではなく、仏名そのものが善であるということです。ここには思いを潜めなければならないことがありそうです。
 ぼくらにとってさまざまな善きものがあります。健康・能力・地位・財産などなど。でも、それらが善きものであるのは、それ自体としてではなく、それらが善きことをするための条件となるからではないでしょうか。


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