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能生する因 [『末燈鈔』を読む(その180)]

(11)能生する因

 親鸞が「本願の名号は能生する因なり」というのはそのことです。そしてさらに「大悲の光明はこれ所生の縁なり」と言います。名号が因となり、光明が縁となって往生という果が生まれるということです。因も縁も、もちろん果も、すべて「法蔵菩薩われらに回向したまへる」のです。親鸞は、名号を父、光明を母になぞらえています。ぼくらに「帰っておいで」と呼びかけてくれるのが父であり、光明でぼくらをあたたかく包み込んでくれるのが母であるというのは、そのイメージだけでありがたい。
 さてここで考えたいのは、いわゆる二重の因縁です。
 この手紙では、名号が因で、光明が縁というだけですが、『教行信証』「行巻」ではさらに、信心が因で、名号・光明が縁であるとつづきます。これを二重の因縁とよんでいますが、一重目で、名号と光明が因縁となって往生が与えられるはずなのに、二重目にきて、名号・光明がそろっていても、そこに信心がなければ往生できないことになります。
 これを聞いて「わたし」とうヤツが「そうこなくちゃ」と手を打つでしょう、「名号と光明だけで往生できるなら、オレの出番がないじゃないか」と。さてしかし、名号・光明に信心が加わることで、はじめて往生できるとなりますと、すべて善きものは「法蔵菩薩われらに回向したまへる」ことが御破算になります。法蔵菩薩と「わたし」が力を合わせることで往生がかなうとなり、他力思想の要が食い破られます。
 では信心が往生の因とはどういうことか。
 光で考えてみましょう。恒星の光は放射状に発散していますが、その光を反射する惑星があってはじめて光のあることが分かります。もし惑星がありませんと、光はどこまでも放散していくでしょうが、宇宙空間は闇のままです。ロケットが大気圏を突きぬけて宇宙空間に出ますと、そこは漆黒の闇が広がります。もちろん地球をかえりみますと、それは青く耀いていますが、そのすぐ外は真暗闇の世界です。


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