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一念多念のあらそひなんど [『末燈鈔』を読む(その183)]

(2)一念多念のあらそひなんど

 『親鸞聖人御消息集』には全部で18通収められていますが、そのうち8通は『末燈鈔』と重複しますので、残るのは10通です。この『消息集』で注目されるのは、いわゆる善鸞義絶事件に関連する手紙が多く入っていることです(第7通、第9通、第10通、第11通、第12通、第13通)。この出来事の本質は何だったのか、これらの手紙を読むことで浮かび上がってくるでしょう。
 さてこの第6通、何年に書かれたものか分かりませんが、親鸞はまずもって念仏の教えが東国の地に広がっていることを「かへすがへす」喜んでいます。東国に下った善鸞に起因するゴタゴタが起こる前のことでしょうか、親鸞の弟子たち(性信房、真仏房、順信房など)によって念仏の教線が伸ばされていたものと思われます。しかしそれに伴って、念仏の教えをめぐる争いがいろいろあったようで、親鸞はそれを「詮なきこと」として「ゆめゆめあるべからず」と釘をさしています。
 これまでの手紙でもいろいろな争いが出てきました、「有念か無念か」(第1通)、「誓願か名号か」(第9通)、「信か行か」(第11通)など。この手紙では「一念か多念か」が上げられていますが、ともかく法然上人在世の頃からこうした「あれかこれか」の争いが絶えず起こっていたようです。どうしてそのようなことになるのか、改めて思いをめぐらせてみたいと思います。
 法然の思考パターンが「あれかこれか」であったことに思い当たります。法然は『選択集(せんじゃくしゅう)』の中で、選択とは「即ちこれ取捨の義なり」と述べています。「あれを捨て、これを取る」ということです。『選択集』は全篇この「選択」に貫かれていますが、その総括としての、いわゆる「三選の文」が有名です。


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