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念仏が「われ」を選ぶ [『末燈鈔』を読む(その187)]

(6)念仏が「われ」を選ぶ

 それにしても、念仏を選ぶのは「われ」ではなく、「仏の本願」であるというのはどういうことでしょう。
 「われ」が選ばないで、いったい誰が選ぶというのでしょう。「あれかこれか」を選ぶというのは、あれとこれを天秤にかけ、傾いた方に決定するということで、どちらに傾くかを見定めているのは「われ」です。まずもって「われ」がいて、しかるのちにあれとこれを天秤にかけるのです。
 しかし、こんな場合はどうでしょう。気がついてみると、念仏の側に選ばれていた。「われ」が念仏を選んだのではなく、念仏が「われ」を選んでいた。まずもって念仏の選びがあり、しかるのちに「われ」がそれに気づく。これは単なることばの綾にすぎないでしょうか。いえ、決して。これは厳然たる事実です。
 「思いがけず」何かをしていたというのはよくある経験です。夢遊病者のことを言っているのではありません、あるいは酩酊したときのことでもありません。ごく正常な精神状態にあるとき、ふと何かをしてしまう。こうしようか、ああしようかと考慮してではなく、先に身体が動いてしまうという経験です。たとえば、目の前で誰かが倒れたようなとき、何かを考える前に身体が動いて、「どうしました?」と駆け寄る。そんなとき、まずもって身体が動き、しかるのち「われ」がそれに気づくのです。
 「われ」は遅れを取る。
 「われ」が念仏を選ぶのではなく、念仏が「われ」を選ぶというのも同じです。まず念仏の選びがあり、しかる後に「われ」がそれに気づくのです。ふと気づくと「なむあみだぶつ」が届いており、そして口から「なむあみだぶつ」がもれている。そのとき「諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも」、それと争おうという気になることはないでしょう。


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